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その場、その時で完結する生活

人々の表情が滲み出す強い既視感

 ソウル、釜山、大邸、南旨、仁川、馬山、などを撮った写真集である。ひとつひとつの写真にコメントはないが、最後に写真家のモチーフを語った文章が付けられている。

 神戸の繁華街で、ふと韓国の民族舞踊ショーを観て、耳慣れない旋律と歌詞を歌う韓国女性の声に引きつけられる。

「私は想像し、探索した。そこには大陸の風景があった。街があり、人々の顔があった。のどかな田園が拡がっていた・・・・・・。(略)その地を歩いてみよう、私の思いは定まった」

 日本人が、対する歴史的、社会的な興味をとくに持っていたわけではないのに、あるときふと韓国という国に引きこまれるという例は、しばしばあるようだ。鷲尾氏にもそういうことが起こったのだろう。たしかにこの写真集には、自分を引き込んだ何かを探してさまよっている、という気配が濃厚に漂っているのである。

「在日」であるわたしにも、それにすこし似た経験があった。じつはわたしには韓国に対する特別な興味はほとんどなかった。北も南も日本もわが祖国でない、というのがわたしの感覚だったから。オリンピックの前にはじめて韓国に行ってみた。そのとき街路や風景を見ながら、ある不思議な感覚に捉えられたことを思い出す。日本とはひどく性格の違った文化の雰囲気がはっきりとあり、しかし一方でたしかに、強い既視感がどんな光景からも滲み出しているのだ。いわばひどく違った形の中に、とても似たものを感じるときのような。そしてこの既視感は、わたしが一世の親たちに育てられた子供の頃の記憶に由来するものでは、おそらくないのである。

 もう忘れていたそのときの奇妙な感じを、この写真集はわたしのうちにありありと甦らせた。ひょっとすると鷲尾氏が強くひかれた何かと、わたしの感じた奇妙な感覚とは、意外に近いものかもしれないと思わせたのである。

 鷲尾氏はたとえば、「日常的な光景の中に存在する、エネルギッシュな誇り高き民族の生命」といった言葉を使っている。しかしこれはいかにもよくある言葉だ。

 この写真集には、韓国の「風景」や「風俗」はうつっていない。風景や風俗の前に必ずさまざまな人間の表情が立ちはだかっていて、それが見るものに、ある言いがたい生活感情の既視感を与える。それは単にどこか”懐かしい感覚”というより、もっと自分のうちにあって、しかしひどくかすかになっている感覚、ふと耳を内側に澄ませたくなるようなある生の感覚なのである。

 日本の風景や風俗の写真には、たとえ人々の生活の表情を撮ったものでも、このような感覚は決して現れない。おそらくその理由は、その背後にわたしたちが日本社会の総体的な関係を直感しているからではないだろうか。つまり、どんな生活の一コマも、消費社会や先進文化といったものに通じる道を隠しているのである。

 これに対して、この写真集に現れた人間たちの表情からは、生活がつねにその場所、その時に完結して存在しているという独特の感覚を与える。それらは、いわば出ていく場所、わたしたちが社会とか文化という言葉で呼ぶ世界を予感させないのだ。

 これはすべてモノクロームだが、『原色の町』というタイトルがついている。しかし、色鮮やかな色彩感を感じさせるというのではない。むしろこの「原色」とは、民族的な色彩の感じではなく、人間の生活感情の「原色」ということかもしれない。

 

哲学者 竹田青嗣

(「朝日ジャーナル」1990年6月15日号)

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